カサ・バトリョとカサ・ミラの実測作図の作業の後、一度日本に帰国することにした。経済体制を立て直すため、スペインの国費留学を申請することにしたからだ。ところが、面接試験の当日の朝、深呼吸ができないほどの激痛が右脇の下部に走った。東京で厨房設計事業をしていた兄の世話になっていた時であった。それで、兄が救急病院に運んでくれた。医師は「肋膜炎です」と診断した。医師は馬用の注射器を私の右脇の下部に刺し、患部の水を吸い出してくれた。おかげで痛みが少し治った。そして医師は、札幌の真駒内南病院に専門医の永井先生がいるので、今日中に入院すべしという至上命令を下してきた。言われるがまま病院に直行し、3ヶ月の入院となった。このことが、人生の意外な転機となった。それは、自分の志が、真っすぐに定まったのだった。この入院期間は、いい意味で私のエンジンの切り替えと、エネルギーの補充期間ともなった。
翌年改めて、予定していた国費留学の面接試験を受けた。それから数週間後、一通の手紙がスペイン大使館から届いた。それは国費留学の合格通知であった。早速、アルバイト先の奥平棟梁や兄にも報告をし、出発の準備のために、実家に戻って旅支度となった。実家の両親は嬉しそうにしてくれたが、兄だけはとても心配し、「病み上がりでいくのか」と言ってきた。それに対して、私は「現地に道具も資料も残しているのでどうしても行く」と答えた。それは仕方のない決断であった。それが本格的な実測・作図の始まりとなった。
バルセロナに戻った私は早速、正式にカタルニア工科大学バルセロナ最高建築学部の王立ガウディ研究室に籍をおいた。同時に公立語学学校にも通った。そうした状況の中で、サグラダ・ファミリア教会の誕生の門の実測が開始となった。ところが、3畳間にも満たない下宿部屋では、実測・作図には無理があった。そこでバセゴダ教授にカタルニア工科大学の研究室にあるアトリエを借りて、実測・作図の作業ができるだろうか尋ねた。すると彼自ら、バルセロナ最高建築学部の最上階に案内してくれた。しかも、サグラダ・ファミリア教会が一望できる場所であった。そこで実測・作図の開始となったのである。これまでの階段の実測経験を踏まえて、同じ様にこの教会の階段から測ることにした。そして、当時の教会の建築事務所のブザーを鳴らした。すると、その現場小屋からピラールという女性ドラフトマンが姿を見せた。私は事情を説明し、彼女は、事務所で作業中の年配のドラフトマン、ラモン・ベレンゲールと私と同世代のジャウマを紹介してくれた。その後、現場監督であったパストール、数日後には、教会の主任建築家であったプーチ・ボアダとルイス・ボネットも紹介してくれた。そして、実測はマティアスの鐘楼の下にある螺旋階段の実測から始まった。1981年10月16日のことであった。